花火の歴史をご存知ですか?
花火の歴史
天文12年(1543年)にポルトガル人が火縄銃を日本に伝えてから、
徳川家康が慶長8年(1603年)に天下を平定するまでの60年間・・・
火薬と火縄銃は幾多の戦場で歴史を左右するほどの重さを持っていた。
戦がなくなり、戦場での火薬の出番がなくなった江戸時代の慶長18年(1612年)、
日本で初めて花火を鑑賞したのが徳川家康
一部に伊達政宗とする説もあるが
「駿府政事録」などの複数の文書
に家康が花火を初めて見物した時
の事が記されており、家康とする
説が一般的である。
である。
文書によれば徳川家康は慶長18年の8月6日に駿府城で
明人が立てた花火
慶長18年の8月3日、明国の商人が
イギリス国王の使者を案内して駿府に
徳川家康を訪ね、鉄砲や望遠鏡などを
献上した。その3日後の6日に駿府城
二の丸で明人が花火を立てた。
また、このときの花火はイギリスのも
のか明国のものかは定かではない。
を
尾張、紀伊、水戸の御三家初代藩主とともにこれを見物したとある。
このときの花火は今のような打ち上げ花火ではなく、筒から火花が噴き出すタイプ
のものだった。
このように始めは外国人に頼んで花火を行っていたがその後、日本国内でも
花火を作るようになり、特に新し物好きの江戸っ子に受けて、江戸で花火が大流行
していく。その人気の高さは「花火の禁止令」
慶安元年(1648年)、承応元年(1652年)、寛文3年(1662年)、
同10年(1670年)、享保3年(1718年)と5回にわたって花火の
禁止令が出ている。
ちなみに慶安元年は江戸市中でのねずみ花火や流星花火な
どの製造禁止令、寛文3年は同じく江戸市中での花火の製造
禁止、寛文10年は江戸市中での花火の売り歩き禁止令である。
ご存知のとおり当時の家が全て木と紙でできていたため、
主に消防上の理由からだった。
が出るほどだった。
花火といえば空に打ちあがったときの掛け声ですよね
「たーまやー!」 「かーぎやー!」
鍵屋
鍵屋口伝書によると、鍵屋の始祖である
鍵屋弥兵衛
幼少時代から花火作りが得意だったと伝えられ、
篠原村を出たあと、堺、大阪、名古屋などを巡り、
町々で火薬を使った手妻(手品、奇術)を見せなが
ら江戸へ向かう。
篠原村を出たあと、根来鉄砲組屋敷で火薬による
花火の製造の研究を重ねたという説もある。
は大和の国の篠原村
現在の奈良県吉野郡大塔村篠原
出身で、
江戸に出たのが万治2年(1659年)、売り出した玩具花火が大当たりし、日本橋の
横山町に「鍵屋」を屋号として店を構え、店は代々受け継がれていった。
大当たりした弥兵衛が考案した玩具花火がどのようなものであったかといえば、
それまでの花火が手筒か、火車
回転するように棒の先端に花火を取り付けたもの
か、ねずみ花火だったのに対し、弥兵衛の花火は
大川(隅田川)などのほとりに生えている
葦(あし)やよしの管の中に星(火薬)を入れた
もの
「子供遊花火の戯」 玩具花火で遊ぶ江戸時代の子供たち
弥兵衛の考案した葦や藁の茎に火薬を詰めたロケット花火のような花火で遊んでいる。
で、それが大流行し、弥兵衛は一躍花火の第一人者になった。
玉屋
玉屋が暖簾を上げたのは文化の頃(1804〜1817年)で鍵屋7代目の時代である。
7代目鍵屋の番頭に清吉という名前の男がいて、大変な働き者であったため当主
から独立のお許しが出る。
その清吉が市兵衛と名乗って始めた店の屋号が「玉屋」
鍵屋の庭に祀ってあったお稲荷さんが、
鍵と玉を持っていたことから玉屋という
屋号をもらったのだとという。
玉屋は両国の吉川町で開業。
である。
暖簾わけした 「鍵屋」 と 「玉屋」
江戸の花火といったら 「両国の川開き」 ですね!
鍵屋と 玉屋と 両国の川開き
「江戸の花火」と切っても切り離せない「両国の川開き」
東京都中央区の両国で催される
隅田川の花火大会。
が始まったのは、
享保18年(1733年)鍵屋6代目の時代
その成功で鍵屋は将軍家に認められ
幕府御用の花火師となる。
である。
その後、玉屋が両国の吉川町で開業するが、たちまち鍵屋・玉屋の二大花火師の
時代を迎え、両国の川開きは両国橋を挟んで
上流を玉屋、下流を鍵屋
落語の「たが屋」の枕で 「橋の上、玉屋、玉屋の掛け
声ばかり、何故に鍵屋と言わぬ情(錠)なし」 と詠まれ
るほど、玉屋は鍵屋を凌ぐ人気を集めていく。
が受け持つ
ようになる。
こうして、隆盛を極めていく玉屋だったが、天保14年(1843年)4月17日、将軍家慶が
日光参拝のために江戸を立つという前日に火事を出し、自分の店のみならず周囲半町
ほどの町並みを焼失させる事態を起こした。当時は、失火は重罪と定められていたため
市兵衛は「闕所」
読み「けっしょ」
当時は「財産没収」だった。
の上、「江戸お構い(追放)」となってしまう。
真偽は別にして玉屋を妬んだ鍵屋が放火したという説や、玉屋はもともと鍵屋芸者に
産ませた子供だという説さえあるのも、玉屋の人気が妬みを買うほど高かったということ
であろうし、それだけ鍵屋、玉屋の競い合いが世間の耳目を集めたということであろう。
次回、
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