「鍵屋」 と 「玉屋」 が生んだといわれる 「線香花火」
線香花火は 2種類ある ってご存知ですか?
線香花火の由来
江戸時代の俳諧選集である洛陽集には、葦やよしよりもう少し細い藁(わら)の先に
火薬を付けた花火を香炉に立てて遊んでいる女性の様が詠まれているが、
香炉や火鉢に立てた花火の格好が仏壇に供えた線香に似ているところから
「線香花火」 の名前がついたと言われている。
2種類の線香花火
線香花火は2種類ある。
一つは「線香花火の由来」で述べた通り、葦や藁の管の中に火薬を入れたもので、
遊び方も手に持って上方45度に向けたり、火鉢などに立てて楽しむ
「スボ手牡丹」
スボとは藁(藁スボ)のことであり、
牡丹はこの時代で最も華やかな
花であったところから用いられた
ものと思われる。
と
呼ばれるもの。それに対して「長手牡丹」
和紙を「長く手で縒る」から
長手の名が付いた。
と呼ばれる線香花火は、藁ではなく和紙を使い、
そこに火薬を付けて縒ったもので、下に垂らして燃やす。
スボ手牡丹は、細い葦や藁の入手が容易ではないためか江戸ではやがて廃れて
いくが、関西では今も線香花火といえばスボ手のほうがなじみが深い
かつて業界の先輩に聞いたところでは、上方のお大尽が
淀川などで舟遊びをする際には、火鉢の上に立てた「ス
ボ手牡丹」をキセルで火を付けて楽しんだそうで、これは
「芸者線香」と言われていたとのこと。
花火遊びがさまざまな世界に拡がっていった証でもある。
ほど深く文化として浸透していく。
「スボ手牡丹」が廃れていった江戸でやがて人気を集めていくのが「長手牡丹」で、
江戸の長手、上方のスボと分かれるのも文化の違い、風土の違いなのであろう。
歴史を本で読んだり学ぶ楽しさは、事実を踏まえながらいろいろな可能性を想像する
ことでもある。「スボ手牡丹」に対して「長手牡丹」があるように、「鍵屋」といえば「玉屋」
であり、「スボ手」を産み大流行させたのが鍵屋
このコラムの「鍵屋」でお話したが、鍵屋の始祖である弥
兵衛が江戸で大当たりした玩具花火が、大川(隅田川)など
のほとりに生えている葦(あし)やよしの管の中に星(火薬)
を入れたものだった。
なら、「長手」を考案して大流行させた
のが玉屋
以下のような一連の背景が「長手牡丹」を作ったのは玉屋ではないかという
想像を膨らませる。
玉屋が店を開いた吉川町の商店街の中に、硯や墨などを売る店があり、
そこでは松煙も扱っていた。この松煙をにかわで固めると松煙墨といわれ
る墨ができるが、松煙を硝石(硝酸カリウム)、硫黄、木炭と混ぜ、少量を
和紙のこよりで包んだ花火が「長手牡丹」である。簡単なアイデアのよう
だが、並の人間が思いつけるものではなく、玉屋のような才覚があっての
ことであろう。
またこの時代、夏になると箱の上に花火を乗せ、金魚売りのように市中
を売り歩いた行商人がいたことが江戸風俗を記した「飛鳥川」や菊池貴一
郎氏の「絵本江戸風俗往来」等の絵で残っている。
その他に、1820年頃に書かれた文献の中に、「線香花火は紙観世(かみ
かんぜ)」という花火売りの口上の記述があり、1820年より前に紙観世(紙
こよりの意)でできた線香花火が生まれたことがわかる。
であると考えることも許されるはずだ。
線香花火のその後
線香花火の3大産地といえば、三河
三河 (愛知県岡崎市)
家康誕生の地であり、矢作川のほとりには硝石製造
所があったが(地元の人はその地を「島」という)、
家康が火薬の主原料となる硝石の摂取を三河に限ら
せ、三河に限って貯蔵・製造を奨励したことがその
発展を促し、末裔が花火業者になっていく。
、北九州
北九州 (福岡県)
おそらく豊臣秀吉が朝鮮出兵のおり、筑後に
火薬方を置き、この地の豪族、筒井一族に火
薬方を命じたのではないかと推量される。
そしてその末裔が現在も薬莢屋を営んでいる。
、信州
信州 (長野県上田市)
想像ではあるものの、「これからの戦いは鉄砲戦だ」
と考えた真田幸村が、硝石と火薬を作らせていたので
はないかと考えられる。
となる。いずれも歴史的な人物や
名将との関連の中で、鉄砲や火薬が発達していったところである。
昭和の時代までいずれの地域も線香花火が生産され、隆盛を誇っていたが、
昭和50年(1975年)以降、中国から安い長手が入ってくるようになり、その打撃は次第に
大きくなっていく。
現在、中国から入ってくる線香花火は年間で約2億本と言われているが、
品質は別にして縒り手の賃金の差から生じる価格差では到底太刀打ちできず、
はじめに昭和60年(1985年)、信州で線香花火を製造する全店
信州での線香花火の生産は内職スタイルで、
農閑期に入った秋に親方がこよりと火薬を持
って農家を回り、春までに撚ってもらうとい
う形だった。春になると出来上がった線香花
火を荷集めし、箱詰めし、金巻をし、それか
ら東京や岡崎の問屋へ送ったのである。
が廃業に追い込まれた。
信州に続いて平成8年(1996年)、岡崎で全店が廃業
昭和の名人といわれた線香花火の縒り手、
人山さんのいる竹内煙火店も店を閉じ、
名品「三河手牡丹」の製造も打ち切られた。
し、そして平成10年(1998年)、
九州の最期の一店も廃業
九州で最期まで撚っていた八女の隈煙火店が
廃業し、「丸共」ブランドの長手花火の製造が
中止された。
したことで、花火業界の流通から日本製の線香花火は完全に
姿を消し、日本製の線香花火の歴史が閉じられたのである。 ----------しかし!?
線香花火のその後
まだ続きます→